
13.APR.2006 英語ストレス

Luang Phabang

珍しく日本語がまったくない日々が続いた。
シモンと共に古都ルアンプラバンに入り、ヴェンヴィエンで分かれたノルウェー人のバスタとも偶然にも同じ宿になり、イギリス人の青年など、ヨーロッパ人に囲まれた生活をしていた。
バスタの英語は速くてこもる音だったので、前々から彼の英語は6割くらいしか分からなかった。
イギリス人の青年の言葉は、速すぎて崩れすぎてまったく分からなかった。
分かるはずの単語が聞き取れなくなり、
話せるはずの内容が話せなくなっていった。
どうやらあたしは、英語ストレスにかかってしまったらしい。
”分からない”と思ってしまうと本当に分からなくなっていくもので、
これまで出来ていたレベルの会話が、どんどん出来なくなっていった。
もう、英語で会話をすることが、苦痛で苦痛でしょうがなかった。
お腹もこの時期に壊れ始めた。
何にあたったのか、もしくはストレスのせいなのかは分からないが、
食べた物が消化されてない下痢が続いた。
そんな時、ルアンプラバンのメコン川沿いの道で、懐かしい顔に出会った。

ビエンチャンの宿で出会った韓国人の、イナ。
イナも韓国人なので、英語での会話には変わりないのだが、
彼との英語の会話には、まったく苦痛がなかった。
なんていうか、やはりノリが、同じアジア人なのだ。
言うなれば、ボケ・ツッコミが、同じ感覚上にあるのだ。
話せなくなっていたあたしの英語力は、彼と話すことで、みるみる回復していった。
ビエンチャンでは彼の強引さに腹を立て、宿を出たのだが、
この時にはもう、心を許して話せる唯一の日本人以外の友だちとなっていた。
ルアンプラバンでは、もうすぐラオスの旧正月・ピーマイラーオが始まる。
東南アジアの国々で行われる、水かけ祭りが始まるのだ。
不安なのは、あたしのお腹。
一日に何度か下している。
突然波が来た、と思ったらなんともなかったように波が引いて行く。
4日間行われる、水かけ祭り。
もうすでに”前夜祭”は行われている。
道を歩いてると、容赦なく、バケツや水鉄砲などで水をかけられてしまう。
あたしのお腹は、耐えられるだろうか。

10.APR.2006 人懐っこい村人たち

ヴァンヴィエンからソンテウで、約3時間。
途中トラックの荷台に乗り換えながら、小さなカシー村に到着した。
小さなメインロードは、山沿い100mくらいにのびている。
そこに小さな売店や食事所が幾つか並んでいる。
メインロードを牛の行列が歩く。
少し中に入ると、大きな田んぼが広がっている。
ここの村人たちは、とても人懐っこい。
道を歩いていると、通りすがる人みんな、
「サバイディー!(こんにちは!)」
と、大きな声で挨拶してくれる。
小さな子ども、学生、おばさん、おじさん、おばあさん、おじいさん
みんなみんな。
笑顔がたくさん、ある村だ。

夜、食事所で晩御飯を食べていると、
地元の高校生が、あたしたちを取り囲むように席に座ってきた。
彼らは高校で英語を勉強している。
滅多に外国人はこの村に来ないので、
ここぞとばかりに英語を使ってみようと、寄って来たのだ。
8人くらいに囲まれ、
「どこから来たの?」
「何歳?」
「名前は?」
「ラオスのどこに行った?」
「明日はどこに行くの?」
「どこに泊まってるの?」
「2人は恋人同士?」
「映画は好き?」
と、あちこちから質問が飛んできた。
日本語を教えてあげると、僕も僕もと、日本語を書いた紙をみんなが欲しがった。
会話に一貫性はほとんどなかったような気もするが、
彼らの興味津々な顔つきがとても可愛らしく、とても楽しくお喋りをしていた。
それに釣られて地元の人たちも何人か集まってきた。
英語を話せない人たちも、ラオス語でしきりに話しかけてくる。
それを英語を話せる子達が通訳する。
そして何時しかあたしたちの周りには、人だかりが出来ていた。
「ラオスはほんとに、人がいいよ」
日本を出る前に誰かが言ったその言葉を、
あたしは思い出していた。
人懐っこい、優しい村の人たち。
たくさんの笑顔に囲まれて過ごした、カシーでの夜。
もしあたしが財布を無くさなかったら、
この村を通過して、直でルアンプラバンに入っていただろう。
この村に出会うために、あのハプニングはあったのだ。
きっと、そうなのだ。

10.APR.2006 ハプニングが呼んだ村

Kasi

とても小さな山沿いの村、カシー。
小さすぎて、”歩き方”には載っていない。
ロンリープラネットにも、ほんの4〜5行程度書いてあるだけだった。
このカシーという村は、とあるハプニングが原因で、立ち寄ることになった村なのだ。
もしこのハプニングがなければ、一生立ち寄らなかった場所かもしれない。
それは、ヴァンヴィエンのバス停で、ルアンプラバン行きのバスを待っていた時のこと―――。
「財布がないっ!!!!」
日本人のみんなとノルウェー人のバスタが先に発ち、
あたしとイスラエル人のシモンと2人、ルアンプラバン行きのバスを待っていた。
しかし、バスが来る直前、あたしは自分が財布を持ってないことに気が付いた。
どうやら宿からバス停に行くまでの間に、どこかで落としてしまったらしいのだ。
あたしは、シモンとバックパックをバス停に残し、すぐさま来た道を戻った。
中には、お金と、クレジットカード。
お金は8000kip(約90円)ほどしか入ってない。
だがクレジットカードはやばいだろう。
あぁ、ラオスでクレジットを使えるところはほとんどないのに、なぜあたしは小銭入れなんかに入れて持ち歩いていたのだろう。
あぁ、カード無くした時って、どうやって対応するんだったっけ
あぁ、・・・見つからない
半ベソでシモンのところに戻り、助けを乞う。
ルアンプラバン行きのバスはもうとっくに出た後で、バス停には、シモン一人とあたしのバックパックが、ぽつんと残されていた。
「よし、今度は僕が行ってこよう」
バックパックをあたしに預け、今度はシモンが探しに出た。
ひとりバス停に残されたあたしは、
暑さのせいか冷や汗なのか、よく分からない汗でダクダクになっていた。
最悪な状況を頭に巡らせながら、待つこと30分。
「ピューピュー♪」
口笛を鳴らしながらシモンが帰ってきた。
手には、あたしが腰にぶら下げていた、その無くした小銭入れを持っていた。
通りすがりの女の人がそれ見つけて拾ったらしい。
シモンが下を探しながら歩いていたので、向こうから声をかけてきてくれたんだとか。
「ヘイ、シスターリサ、君はラッキーだよ。
もしここがインドなら、この中身はカラッポだ」
おどけた顔をして、シモンはその中身をあたしに見せた。
お金も、カードも、ちゃんとある。
一気に緊張が緩んだ。
あぁ、拾ってくれた人が、心ある人で、本当に良かった。。。
拾ってくれたラオス女性に大感謝。
(そしてなんとなく、ここがインドじゃなかったことにも感謝した。)
「さて、シスター。これからどうする。
今からルアンプラバン行きに乗ったら、到着するのは夜中だよ」
バスの時刻表を見ながら、シモンが首を傾げていた。
さて、どうしよう。
財布を探し回ってたら、いつの間にか時計の針は、4時近く。
ここからルアンプラバンまでは、7〜8時間、かかるのだ。
シモンが持っていたロンリープラネットをぺらぺら捲ってみる。
と、丁度こことルアンプラバンの間に、小さな村があるのを発見した。
カシーという村。
小さすぎて、”歩き方”には載っていない。
ロンリープラネットにも、ほんの4〜5行程度書いてあるだけだった。
「カシー、行ってみたい気がするな」
不意にあたしの口から出たその一言。
「OK!いい選択だ!すぐバスが出るよ!」
シモンはダッシュでカシー行きのトラックバス、ソンテウに飛び乗った。
続いてあたしも、その小さなソンテウに転がり込んだ。

9.APR.2006 ラオ・チルドレン

ヴァンヴィエンで、ある姉弟に出会った。
長女が、ドラー
次女が、ゴンカー
三女が、ルンニー
末っ子長男が、ジョー
4人は、あたしが絵を描いているところへやってきた。
ずっとスケッチブックを覗き込んでいるので、
クレヨンと紙を、それぞれに渡してみた。
すると彼女たちは楽しそうに絵を、描き始めた。




しばらく子どもたちにラオス語を教えてもらっていた。
とても仲の良い姉弟で、特に長女ドラーがとても面倒見が良い女の子だった。
ふいに、ドラーが、
「お菓子が食べたい」
と言った。
あたしは少し考えた。
彼女たちはとても可愛かったし、
たくさんのラオス語を教えてもらっていた。
あたしはその姉弟に、一つだけ、買ってあげることにしたのだ。
昔の駄菓子屋のようなヴァンヴィエンの売店で、
日に焼けたオレオもどきを一つ購入。
姉妹は、均等にビスケットを分け始めた。
ひとり、2枚ずつ。
袋に3枚のビスケットが余った。
どうやって分けるんだろう、と見ていると、ドラーは、3枚全部をあたしに差し出した。
「君たちに買ってあげたんだから。みんなで食べな。」
そう言っても、彼女たちは頑として受け取らなかった。
ドラーに差し出されたビスケットを改めて見てみると、
恐らく最初は黒であっただろうビスケットが、日に焼けて深緑に変色していた。
明らかに賞味期限が疑わしいそれを、口の中に入れてみる。
おなかを壊しそうな変な味はしなかったが、まぁそれでも、そんなおいしいと叫べるような代物でもなかった。
しかし、姉弟は、ビスケットの欠片で歯を真っ黒にしながら、とても嬉しそうに、美味しそうに、オレオもどきを食べるのだった。
日が暮れるまで、彼女たちと話していた。
写真送るよ、と言うと、姉弟は大はしゃぎで、代わる代わる被写体となった。
ここまでは、普通の、日本にもいそうな子どもたちだと思っていた。
しかし彼女たちは、
「夕飯を食べさせて」
と言ってきたのだ。
「両親はどうしたの?」
そう聞き返すと、
「遠いところに行ってて、いないんだ、ずっと」
と言った。
あたしには十分にラオス語を理解することが出来なかったので、
その意味は計り知れなかった。
次女のゴンカーが、
「あたしたち、貧乏なの」
そう、言った。
あたしは、正直とても迷っていた。
彼女たちが食べたがっていた物は、特に高価な外国料理ではなく、
普通のラオス人が食べる、普通の料理だったからだ。
日本人のあたしには、何の苦もなく買えるような、そんな値段だったからだ。
しかしここはラオスで。
あたしは今、ラオスの物価で旅をしている。
とても4人分は、食べさせてあげられない。
「出来ないよ、ごめん」
あたしはそう、繰り返していた。
姉弟たちと別れてからも、あたしはずっと考えていた。
確かにあたしは、一ヶ月旅出来るギリギリの資金でここに来ていた。
しかし、露店に可愛いピアスがあれば、それを買えるし、
古本屋に欲しい本があれば、それも買える。
姉弟たちが食べたがっていた物は、それらよりも安いものだった。
あたしはずっと考えていた。
でも、どうすればよかったのか、あたしには、分からなかった。

water color, VANG VIENG


